マイレッジでお得に4泊5日夫婦旅 ☆大宰府・上五島・軍艦島・外海☆ 前編
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太宰府天満宮前 表参道
(写真) 土日でもないのに賑わう太宰府天満宮 表参道。 14:45 撮影
Go Toを使い11月末のベストシーズンに雲海に浮かぶ竹田城の予定だったのですが。 コロナがマスマス猛威を奮うので、泣く泣くキャンセル。
ショックで暫しボーっとしていました。
益々 ボケるので 5年前 未完成のままでアップした 上五島の旅スケを完成させることにしました。
The First Day
太宰府散策切符(1人1000円)を西鉄天神駅で求め、太宰府観光にLet's go!
14:18 大宰府駅着
でも私達がまず向かったのは駅直ぐそばの梅が枝餅の店(散策切符にはこのお餅3個の料金も含まれています)。 お店で食べたいと言うと 「全部ですか? お土産に持ち帰る事も出来ますよ。」 大きさを見せて戴くと普通の大福サイズ。1つで充分と思ったが、サービスのお茶を一緒に戴くと2つぺろっと! 程良い甘さ。 3つでも多いのにこの店ではおまけで4個戴ける。 夫のと合わせると計8個。 4個は持ち帰り用に袋に入れて貰う。 この4個が私達の非常食となるとは この時は露知らず。 -
太宰府天満宮
14:49 大宰府天満宮着
韓国や中国からの団体観光客で賑わっていた。 博多から釜山近いですものね。 何の御利益があるのか不明ですがこの牛さんの鼻を沢山の人がなでていました。 -
太宰府天満宮
15:02 太鼓橋 着
漢字の「心」の字を象った池に掛かる御神橋三橋は、手前から過去・現在・未来を表し、三世一念の仏教思想を残した物と伝わります。この橋を渡ると心身ともに清められるとも謂われています。
*https://www.dazaifu.org/tenmangu.html
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光明禅寺
15:45 光明禅寺着
九州の苔寺。 入場者が少なく ゆったり鑑賞できました。
◎以下2021.1.23記
調べてみたら 今では 穴場どころではなく、大変混み合い、外国からの観光客の多いシーズンは閉まっているようです。 撮影も禁止となっています。
ホームページがないのでコロナ禍でどうか 調べられません。
☆天神様が中国へ渡り禅を学んだという渡唐(宋)天神ゆかりの寺として、鎌倉時代に創建。 *大宰府散策きっぷ リーフレット -
観世音寺
(左上写真) 観世音寺宝蔵
(左下写真) 観世音寺
(右写真) 戒壇院 梵鐘 吊されている梵鐘は白木玄流が元禄14年(1701)寄進したもの。
観世音寺の横にある宝蔵の 入館料は 太宰府散策切符を買うと100円割引きで400円。 16:30までの入館だが、入ることができた。 セーフ
展示されている全ての仏像は重要文化財。 その内の3体(11面観音菩薩像、馬頭観音菩薩像、不空羂索《ふくうけんじゃく》観音立像)のいずれも5メートルほどある巨像には、圧倒された。 仏像にさして関心があるわけではないが 撮影禁止でもあったので 記念に館内で小冊子(中央公論美術出版社 ¥952 )を求めた。 写真を見ているだけで未だに読んでもいないが。
◎以下2021.1.23記
最も古い彫像は、階段を上がるとほぼ正面にある「兜跋毘沙門天立像(とばつ びしゃもんてん りゅうぞう)」9世紀の像。
https://www.dazaifu-japan-heritage.jp/bunkazai/detail.php?cId=500
観世音寺宝蔵で貰ったリーフレットの正面に梵鐘(竜頭)の写真があり白鳳時代 国宝と書かれ、ているのですが、見ていません。 下記動画に依れば 宝蔵の前にあったのです。*https://www.youtube.com/watch?v=KCdf38977RE
ストリートビューで確認しました。
木製の古い説明板に 縦書きに
この梵鐘は京都妙心寺の鐘と兄弟と云われ
その古さに於ても亦優秀さに於ても 正に
日本一と稱せられ糟屋郡多々良で鋳造
されたと伝えられています
菅公の詩に
都府楼纔看瓦色 観音寺只聽鐘聲
とあるのはこの鐘であります
と書かれています。
そうとは知らず 代わりに戒壇院の梵鐘(福岡県指定文化財) (右写真)で我慢。下調べ無しで行くとこんなもの(>_<) -
太宰府政庁跡
17:32 太宰府政庁跡着
(左写真)
小野老 石碑
あをによし寧樂の京師は
咲く花の 薫ふ がごとく
今さかりなり
「青丹よし 奈良の都は 咲く花の にほふが ごとく 今盛りなり」と思っていたのですが。
(右写真) 河原の桜が咲き始めていました。 -
御笠川
18:02 朱雀大橋を渡る
川沿いの道を歩き都府楼前駅に向かう。 夕陽で川面が輝く。 -
(写真左上)博多発フェリー 「太古」202号室 ツインルームを予約した。私達は何を勘違いしていたのだろう? ツインベッドの部屋と思っていた。 マットレスを敷いただけの床で寝ることになったのだが寝心地は意外によかった。
(写真右上) チョット豪華な階段 ライトの色が変化してエレガント
(写真下)青方から福江に向かい出港する太古
船酔いを心配し、福江でなく一つ手前の青方で降りる旅程を選択したが、殆ど揺れなかった。
21:24 博多ふ頭着
23:45 フェリー太古発 -
跡次教会
(左写真) 跡次(あとつぎ)カトリック教会の守護神 海の星聖母
(右写真) 教会屋根の十字架
The Second Day
5:40 青方港 定刻着 約束通り 青方港のパーキングの約束の場所にレンタカーがあり一安心。
*有限会社レンタル・アンド・リース浦 (8:30-18:00)
〒857-4404 長崎県南松浦郡新上五島町青方郷1599-1 ℡0959-52-2088
ターミナルには 大きなテーブルがあるが、朝食代わりになるものは無し。 自販の缶コーヒーと太宰府散策切符で貰い半分残した4ヶの梅が枝餅を食べる。
初日は若松の方をドライブすると決め 6:10青方港相河ターミナル発。
車を走らせると 6:28 切支丹墓地が 6:30 白い塔に十字架が見えた。 6:32 跡次カトリック教会の看板が見えた。 早朝なので内覧は不可。
説明板には 日本語、英語、ハングル語、中国語で
明治12年(1879年)大曽から4人、丸尾から8人の漁師が跡次の納屋に入居したのが信仰の始まりと言われている。
昭和7年(1932年)5月、鯛ノ浦教区の巡回教会として設立。
大曽教会の独立とともに大曽小教区に組入れられた。聖堂の老朽化が激しく、信徒の総意により改築計画が立てられ、昭和59年(1984年)12月現在の教会が建立された。
教会から眼下を見下ろすと、折島と柏島に跨がる上五島洋上石油備蓄基地や大曽教会を眺めることができる。
と記されていた。
*長崎と天草地方のキリスト教関連歴史文化遺産群ウェブサイト
http://oratio.jp/burari/goto
私が訪れた時にはなかったものです。 詳細な説明と美しい写真是非参照下さい。
紙のワオマップ 現地のどこで手に入れたのか忘れましたが、下記サイトからアクセスできますので参照下さい。 https://wowmap.jp/wao/?waomap=%E9%95%B7%E5%B4%8E%E7%9C%8C-%E6%96%B0%E4%B8%8A%E4%BA%94%E5%B3%B6%E7%94%BA
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平家塚
6:49 平家塚着
説明板には 日本語、英語、ハングル語、中国語で
「今里平家塚と中世墳墓群」
壇ノ浦で敗れ、西海の島々に落ち延びた平家一族のうち、今里の山中に隠れていた十数名の者達が、源氏の追討の急なるを知ってもはや逃れるすべてなしと全員自刃して果てた。これを哀れに思った村人達がその遺体をここに手厚く葬り、碑石を建てて供養したものである。今もなお「平家塚」と称して供養を続けている。
周辺の墳墓群は中世末期から近世紀の墓碑で、宝篋印塔・五輪塔(散石)・有蓋彫像板碑・自然石の板碑が整然と並んでいる。左側中央板碑の頭部に「卍」陰刻があり、正面の碑面に「若有見聞悉発菩提心」・「右志者為一蓮仏」・「念仏衆生」・「法華経」の文字が詠み取られる。(若し見聞するものあらば悉く菩提心を・・・) 建立年月は正徳4年(1714年)でこれらの墳墓はこれより以前のものである。
と記されていた。
左側中央板碑の頭部に「卍」陰刻があり等々と説明にあるのが、私達には見えなかった。頭部に〇印が辛うじて見えただけ。 -
御船様
7:03 御船様着
遣唐使渡航船の日本最後の寄港地である五島列島には、安全祈願したこのような舟形石の御船様が残されているそうだ。
説明板には4か国語で
御船様 平成3年10月1日町指定(有形民俗)文化財
宝亀7年(776年)佐伯今毛人(さえきのいまえみし)を大使とする第14次遣唐使船団は難波の三浦浦から筑紫を経て合蚕田浦(あいこだうら)(青方湾)で風待ちのため一ヶ月以上も滞在したが、ついに渡海の機会を失い帰京した。翌年佐伯今毛人は病のため副使小野岩根を大使代行として出発した。この船団4隻は、往路は無事渡唐したが、帰路は悲惨なものであった。
宝亀9年(778年)秋、帰国の途についた第一船と第二船は東シナ海に侵入三日目に暴風に遭い、第一船は沈没、小野岩根は海の藻屑と消えた。第二船は鹿児島の出水海岸に漂着した。第四船は済州島に吹き寄せられ捕らえられたがひそかに纜(ともづな)を解いて逃れ北西風に流されながら甑島(こしきじま)に漂着した。第三船のみ10月23日に値賀島橘浦(ちかのしまたちばなうら)(現在の今里湾)に無事帰着した。
当時の遣唐使船は造船技術も劣悪であり、気象観測・通信施設も発展していなかったから、無事中国大陸に到着できる可能性は極めて少なかった。そのため遣唐使一行は海上交通の平安と無事を神仏の加護にたより、祈ったことであろう。おそらくこの第三船が無事帰着したとき、「願解(がんとき)」の感謝祭と、なお都までの帰路の無事祈願とがこの舟形石の前でとり行われた。
と記されていた。
五島に奈良時代からの歴史があったとは! 着いて早々に心躍る。 -
猪ノ浦教会
7:43 猪ノ浦教会着
説明板には 4か国語で
真手ノ浦教会の巡回教会。
昭和22年(1947年)8月に創立。
猪ノ浦に人が移り住むようになったのは明治の中頃といわれ、大曽教会に属し、信者は大曽まで参拝していたが不便であった為、昭和22年(1947年)聖堂が建設され、昭和43年(1968年)には司祭館が建てられた。
昭和50年(1975年)1月20日、真手ノ浦小教区の発足に伴い、同年2月9日真手ノ浦教会に神父が配属されてから真手ノ浦小教区に属し今日に至る。
平成元年(1989年)1月16日に新聖堂が完成し、里脇枢機卿により祝別・献堂された。
と記されていた。
つまり猪浦教会の聖堂は1947年に建設され、1975年真手ノ浦教会に神父が配置されてからは真手ノ浦教会の巡回教会になったと言うことなのでしょうか(?_?)